身体的自由

人が何を求めているかは聴くしかない

あんなことやこんなことをすれば喜んでもらえるかも。想像妄想は楽しい時間ではありますが、それがただの独りよがりだったことは無数にあります。今回はこのことについて書いてみたいと思います。

人が何を求めているか?

それは話してもらわないと分かりません。

こんなことは、よくある日常の風景です。

自分の勝手な思い込み、

妄想、

解釈の相違、

相手の雰囲気に流されて、

忖度も含めて自分なりに解釈して納得する。

そしてその場を終わらせる。

後でその解釈は違っていて、そのフォローに時間を費やす。

そんな光景を多く見てきました。

自身の体験も存分に含みます。

しかし、

たった一言だけでも聞くだけで

「そんなことだったのか~」

と呆気なく解決することもよくある話です。

これは身体の世界でもよくあることです。

例えば施術の世界。

クライアントさんご本人は様々な症状とそうなった経緯を延々と説明します。

取っ掛かりと信頼関係を築くという部分ではそれも大いに大事な部分ではあります。

けれど、肝心の身体に聴く方が一番早い場合も多いことも事実です。

触れば解る。

観れば解る。

あぁここが疲れているから、そういう症状で本人に気付いて欲しかったんだなと気付くことが多々あります。

そのことは案外本人は気付いていないことが多いものです。

身体に聴いてみて初めて分かることも少なくありません。

人は自分のことは自分が一番知っていると自負しますが、往々にして本当の意味で自分自身を理解しているかは甚だ疑問を持っています。

少なくとも、自分自身の体感値では知らないことだらけです。

だからこそ、

静かな内観の目と物理的な触診でその日の体調を確認したり整えたりしています。

それでも

気付かなかった不具合不調などは日常茶飯事です。

そう考えると、

話を直接聴くということにリンクする部分と身体に直接聴くということもその人自身と会話することと同義であると考えられます。

そしてそれはボディーワーク的な部分でも大いに繋がっています。

自分は出来ている。

やはりこう考える人が多いでしょう。

なので巷では、

それが本当に出来ているか確認する作業があるのだと思います。

これも身体に聴いてみることが一番手っ取り早い。

触れば解る。同じことです。

出来るか出来ないかは分かりやすいものです。

出来るならば、

その先を追い求めれば更に楽しい世界に行ける。

出来ないならば、

出来るように試行錯誤する瞬間が堪らなく楽しい。

ここで大事なのが、

出来ているからといって偉いわけでも、出来ないからといって卑下する必要も全くないことです。

赤ちゃんが立てないことを見て、立てる大人が偉い訳ではないように。

そうなりたいと思ったら自然にそうなろうと努力をするし、出来る人はそれを見守り手助けするだけです。

人が出来ることは、いずれ誰でも出来ること。

早い遅いに何の価値も求めません。

ただ、

知らないのに知っていると嘯いたり、自分だけが特別になりたいとやり方自体を煙に巻いたりすることはどうかと疑問には思います。

同じ世界で、同じ会話をして、一緒にステージを登っていければ最高だなと思います。

その道で少しでも前に進んでいるのならば、分かりやすく道を切り開いて後から来る人のインフラ整備をしていくことも面白い仕事。

人によって求めるものはまちまちだと思います。

それは時代によっても環境によっても刻々と変化していくでしょう。

ただ、

人が生きていく上で自分の身体と心を切り離すことは出来ません。

芯をしっかりと立てた上で、自分に出来ることはなんなのか。

常に自らの身体と心に問い掛けたいと思います。