何かを突出するためには、全てを自由に伸ばすことはお勧めしません。やはり集中する為にはどうしても制限が必須だと感じています。制限からの自由。そんな流れの大切さを話したいと思います。
最近の風潮として、楽に楽にとか、我慢しないでとか、とにかく気持ち良くとか、そういう流れ大事にする風潮を感じます。
それも一つの真理。
辛くて辛くて、嫌になるくらいキツいことを続けた先に気持ちが壊れる。
そんな場面も少なからず見たこともあり、極端なものには賛成出来ないものも多いことも事実だと思います。
しかし、
何をするにも自由だけだと、何をして良いのか途方に暮れる時もあります。
前に進んでいるのか、立ち止まっているのか、はたまた後ろに下がっているのか、自分でも分からなくなりかねないふわふわした時間。
長い人生の中でそんな時もあって良いとは思います。むしろそんな時間も好きな方ではありますが。
それだけでは物足りないという人にお勧めなのですが、
一つの打開策として、逆に制限をしてみるという方法があります。
巷には数々のスポーツなどがあり、そこには数え切れないほどのルールがあります。
これも制限の一つ。
サッカーでは手を使ってはいけないから、脚での技術が進歩しました。
野球では決まった道具を使うことにより、道具を使う身体の技術が進歩しました。
どの道に進もうとも、必ずと言っていいほど制限が発生し、その分その制限の中での特殊な力が多々芽生えるようになっている素晴らしいもの。
そこで、
全ての根源は自分の身体と考え、この身体を100%活用しきる方法があるとしたらどうでしょう。
それは制限の中でも最大にして端的。
大和の姿勢で立つ。
立ち続ける。
究極の制限。
動くというそのモノを文字通り一旦立ち止まって見つめ直す。
身体の自由を得るためには、身体を不自由にすることがいい。
そこから見えるものがあります。
動きたい動かしたいという欲を限りなく制限する。
維持するために使う身体と、動かしたいために使う身体は違うもの。
まずはそれを理解することから始めます。
あたかも身体のカウンセリングを行うように。
自分という身体がどう動きたがっているか。
動きたがっているところを無視して、無理矢理筋力を総動員していないか。
本当に機能的な動きをするならば身体も心も爽快であり、どんどん重力から解放される動きになります。
むしろ重力を利用するので、力は要らなくなります。
宇宙のような空間ではまたそこでの最適解があるのでしょう。
この地球上では重力が必ずかかる。
それに対しての身体の最適解を導き出す。
それはただの体質改善だけではなく、数学的な未知の公式を発見するような素敵なもの。
どのように立つか?
それは
大和の姿勢で見えてくるものです。