メメントモリという好きな言葉があります。「死を忘れるな」という意味のラテン語の言葉です。人のいつかやりたいという言葉を聞いて、ふと思ったことを書きたいと思います。
今この現実を創っているものはなんなのか、日々自覚しているでしょうか?
国?
性別?
環境?
それとも時代?
それは自分自身です。
もっと解像度を上げると、自身の選択の結果がまさに今だと考えます。
明日死ぬと分かっていれば、今日を大切にすると思いませんか?
それが5年後に死ぬと言われても同じような感覚ではないかと思います。
しかし問題だと思うことは、
例えいつか死ぬと決められていたとしても期日が不明ならばかなりボヤけてしまうことです。
永遠の命がないことは誰もが知っている事実です。
ですが、その本質的な意味で理解するには死に直面する衝撃的な出来事などがないと中々気付くことは難しいような気がしています。
要はいつか死ぬとは知識としては知りつつも、やっていることは永遠の命を生きている様な行動をしている人が少なからずいます。
いつかやろうと思っています。
落ち着いたら、時間が出来たら、お金に余裕が出来たら、子供が落ち着いたら、引退したら。
出来ない理由は探そうとすれば無数に作ることができます。
それを明日死ぬかもしれないのに、本当に今やらないのですか?
と自問自答して欲しいと思います。
考えた結果、どうせ死ぬのだから何もしない。
それも一つの選択です。
子供の頃一度そのような考えになりかけた時があります。
それは太陽のことを学んだ時のこと、太陽のような星もいずれは太陽系の全て?を飲み込むような膨張をして最後には爆発して無くなると。
この地球も最後には全て無くなると知ったときに、どうせ無くなるのなら何を頑張る必要があるのかなと思った懐かしい思い出があります。
けれども逆に考えれば、今せっかく生きているのであればその生を楽しく悔いなく生きれたら良いなとも思いました。
阪神大震災で被災したとき、さらに今生きているという実感を得られたとともに、運良く助かった命を1秒とも無駄に出来ない。
そう思える様にもなりました。
日常生活が忙しいと、段々と思考が鈍くなっていきます。
いつか良くなればいいなという、いつかは自身で創り出すことが出来ます。
偶然や他力や、それこそ奇跡なんてものを待っていてはいつになるか分かりません。
今生中にはこないかもしれません。
であるならば解決策は一つ。
自身の物語の主人公は自分自身と自覚することが必須です。
そしてこの主人公は必ず、死ぬことになります。
その中身を人に委ねるか、自身の手に取り戻すかは自分で決めることが出来ます。
僕は自分の足で歩くことにようやく覚悟が決まりました。
死を意識して、だからこそこの生を全うし尽くしたいと思います。
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