経済的自由

清富も清貧も同じ価値

清貧という言葉があります。富を求めず、心を清く正しく持ち、質素な生き方が素晴らしいという意味合いがあります。なんとなくでもそれが良いと思っている節はありませんか?それがもし負け惜しみの心理と言われたならどうでしょうか。このことについてお話ししたいと思います。

此処で言いたいことは、清貧であれ、清富であれどちらでも好みにより選ぶことができること。

そしてどちらを選んだとしても、もう片方を邪険にしないという当たり前のことを強く言いたいです。

ここ日本において、清貧という価値観はあらゆる場面において美化されている風潮が見られます。

一般社会だけでなくテレビなどの娯楽も含めてです。

大体清貧な生活をしている主人公が悪の大金持ちに勝つ、そんなストーリーが多くはないでしょうか。

個人的には富を求めずというところに少し違和感を感じます。

原始時代ならいざ知らず、富は生きていくためには必要不可欠なものではあります。

お金に苦労するという言葉もあるように、ないと苦労するということが誰にでも周知の事実です。

確かにその求め方が、誰でも彼でもお金を巻き上げて搾取し、贅の限りを尽くす。

であれば如何なものかとも思いますが、そんな人をあまり見た事がありません。

それにそんな人は、人望が得られず遅かれ早かれ苦労するような事になるような気もします。

あるに越したことはない。

しかもそれは稼ぐことで誰にでも得られるものという以外と公平なものだと感じています。

生まれた家がお金持ちでそれを引き継ぐ人も勿論いるでしょう。

あればあるほどどう使うのかとても興味があります。

無ければないでどう生きているのかそれもとても興味があります。

要はどんな環境にあっても、誰もがその人の人生を謳歌していて、誰も文句を言う権利はないと考えます。

最貧だけを良しとするのはやめましょうという提案です。

中には清富を目指して、様々な人に貢献したいという人もいるでしょう。

そんな人のところには自然と富も集まってくることでしょう。

そんな姿を妬んだり、嫉妬したり、蔑んでみたり、もしそんな感情が少しでも生まれるのであれば、

それは後天的に刷り込まれた価値観かもしれないと心に胸を当てて考えてみて下さい。

本来どのように生きようとも自由であるはず。

選択する権利はあります。

少なくともここ日本では努力は身を結ぶ場として恵まれている方だと感じます。

自由に好きな方を選んで、共に人生を豊かにしていきましょう^_^