健康的自由

生涯現役の楽しみは一生続く

武術を探求する上での最終目標は死ぬ迄に何処まで行けるのか?その事にしか興味がなく、現役と呼ばれる時代にも同じ思考であった為かなり異端ではありました。今思えばですが、何が違っていたのか少し考えてみたいと思います。

スポーツにしろ、武道にしろ試合というものがあります。

それを目指す目指さないというもの自体にはその人の考え方で行えば良いと本気で思ってはいますが、その違いは何なのか少し考察してみました。

この違いが少しでも理解することが出来ればお互いの距離感を縮めることが出来るかも知れないなと思ったからです。

先ずは僕の場合ですが、過去試合には出場するものの人生の通過点の一つでしかなく感情がそこまで入るものではありませんでした。

これは小学生であろうと、大人であろうとも変わりませんでした。

なので試合に勝った負けたで一喜一憂することはありませんでしたが、練習した事が出来た時出来なかった時には一喜一憂していました。

それは試合でなくとも同じです。

出来ないことが出来るようになることが1番の目的で、その為には練習時間という概念すらあまりありませんでした。

どういうことかというと、四六時中没頭する感覚です。

常に動いているわけでもないですが、あ~でもない、こ~でもないとずっと試行錯誤している状態。

練習といえば練習であり、稽古といえば稽古であり、遊びといえば遊びであったかも知れません。

なので一時的に試合にフォーカスしていた時代はかなりストレスでした(笑)

なぜなら本当にやりたいことよりも、試合に勝つことが目的の練習や稽古が増えるからです。

そんなことよりもやりたいことがあると内心は思いつつも、団体競技や道場という独特の雰囲気の中その練習をしないという選択肢はもっていませんでした。

一生それで楽しみたいと思っているので、試合の為に怪我を我慢してまで追い込む感覚がとても信じられませんでした。

強靭な精神を作るためといえばそうかも知れないのですが、その代償は試合が終わった後も引きずる人が1人や2人ではありませんでした。

何人もの現役引退する人を見る中で、怪我による引退は本当に悔いが残るだろうなと思っていました。

楽しく始めた趣味が怪我により出来なくなる。

こんな辛いことはありません。

どれだけの栄光を持った人でも「昔は強かったんだぜ」という大人にはあまり魅力を感じることが出来ず、どのような分野でも生涯現役で楽しんでいる人に魅力を感じていました。

歳をとれば衰える。

そんな常識を破っている人に出会わなければそう信じていたかもしれません。

世界は本当に広く、生涯現役で楽しんでいる猛者は存在していました。

同じ人間である以上、それならばそうなれる。

根拠のない、それでいて絶対的な自信が芽生えた瞬間でもありました。

試合を目指すと瞬間的な濃密さは凄まじいと思います。その濃度が一生続くのあればそれは神に近い存在になるのではと思うほどです。

ですが試合のみにフォーカスをすると輝く期間は大抵短く、引退するとそのパフォーマンスは落ちることが現実です。

それでは一生楽しめないかな。

と、個人的には思います。

生涯現役。

死ぬ瞬間が1番上達している状態。

そんな人生にしたいなと思っています^_^