身体的自由

0から1にするのが立芯道場

0から1にするとは、全くの初心者(0)が達人が使うような技をその場で使えるようになる。そのことを(1)と言うようにしています。会得するのに刻を必要としない意味を話したいと思います。

立芯道場では、出来ないことを出来るようにすることを0を1にすると表現します。

通常自分の知る限りでの習い事では最初は基本から教わり、徐々に段階を経て技術などを習得していく形が多いです。

過去そうやって教わってきましたし、特に疑問があった訳ではありませんでした。

そこには先生や上級者の生徒さんがいて、いつかそうなれるようにと夢見て継続する場所。

そこには趣味が同じという一つのコミュニティが作られており仲間同士でも切磋琢磨出来る環境がありとても好きな空間でした。

ただ個人的には向上したいという欲には上限がありません。

どんな道でもそれなりに上達してくると、もっと先を観たいという欲が湧いてくるのです。

その時ふと違和感もしくは歪みのようなものを感じたことがありました。

道というモノは本当に奥が深い。

よくあったこととして、その教室の先生しか出来ない技術のある集まりが多くありました。

先生とその他の人という図式。

一番弟子と言われる人でも、先生のようにはまるで出来ない。

もちろん、全てが全てという訳ではありませんが自分からみて高度なものになればなるほどそんな体系が見られる気がします。

表面上の変化や、その先の技術に繋がりそうなことはなんとなく分かります。

けれど同じことが出来ないということは、0は0のまま。

それが何ヶ月ならまだしも、

何十年経たとしても変わらずということも実際にあり得る世界でした。

考えられるものとしては、代々伝わる高度なものは誰でも簡単に教えるべきではないという人を選ぶというものがあります。

また伝えるべき人以外には伝えないという例えば一子相伝のようなもの。

過去何人かの本物と出会う中で、どんな高度なものもその場で伝えれば伝わるという体験をしました。

それはとても貴重なもので、確かに誰でもということは危険だなと思うものも含まれます。

しかし、伝えようと思えば伝えられる。

ここが一番キモなところです。

人生は一度きりで、明日または今日にでも死は訪れるかもしれません。

いつか出来るかもというものは、それが本物でない限りとても不安が残るものです。

何十年も経た先に、実は大したことがなかったり、夢見ていたその先が実はないということも可能性は0ではありません。

それは我慢出来ない。

ということが今回主張したかったことになります。

自分自身が得たもので、

活用すると本当に便利になるもの。

それを先ず始めに会得してもらう。

初日で0から1に成ってもらう。

本来先にある楽しさを先に渡し、その更に先の世界に一緒に歩むことはどうですかという提案が立芯道場で行なっている全てです。

0から1は毎回面白く、笑いが絶えません。

出来るのであれば、ぼくが若い時にこんな道場に参加したかったもの。

それをこれから再現していこうと思います。