身体的自由

脱!スポーツマン?

好きな言葉の中にスポーツマンシップというものがあります。好きではあるけれども、武術的には反する事が多々あることについて今回は話したいと思います。

スポーツマンシップとは?

概ねスポーツをすること自体を楽しみとしたり公正なプレーを尊重する。相手の選手に対する尊敬や賞賛、同じスポーツを競技する仲間としての意識をもって行われる活動。またその姿勢等々。

そんな意味合いでしょうか。

理屈ではない感情。

この人とずっと競い合いたいと、

対等な立場で、

対等なルールで、

または対等になる負荷を自らに与えて競技自体を楽しむ感覚。

それが美徳と教わり、子供の頃はなんの疑問も持たなかったものです。

しかし、

それは強者側の理論ではないか?

そう思えるような場面が増えるようになりました。

一歩社会に出ればなんでもありの世界です。

特に悪い意味でもなんでもなく、騙し騙され合いながらもそれでも前に進まなければいけない社会。

弱肉強食。

良い事をするにも力が知恵がいる世界。

個人的な思いを語るならば、あくまでこれは美意識の問題で人に強要するものではないと考えます。

小さい頃から大体このようなことを求められ簡単に言えばズルいことを良しとしない風潮で育てられました。

環境にもよるとは思いますが、正々堂々真正面から競い合う。

表向きは一見正しく見える。

教育者はその姿勢を讃えるでしょう。

そこにもう一つの視点を加えたいと思います。

果たしてそのルールの中で、スポーツマンシップに則ることで必ず勝てない弱者が生まれることに疑問が発生します。

生き残るための工夫や智慧。

それをルールという人が作った縛りで

囲ってしまう。

もちろん、

努力や工夫によりそのルールの中で向上する姿は尊いものです。

それは否定出来ません。

むしろ敬意に値することも多々あります。

その上で、

ルールというものはただの人が作ったものということをはっきりと認識させることを提案したいと思います。

ルールを決めた者の意図を汲む。

そして、

そのルールなんていうものは絶対でもなんでもないということを知ること。

大きく解釈をするならば、

誰かのレールに乗るだけが生きるということではないということ。

戦争なんかがいい例だ。

大の大人同士が、人も物量も資金も全て不公平な差があるままに殺し合う。

こんな理不尽がまかり通る現実の世界。

ここに、

スポーツマンシップなど介在する余地は無い。

けれど、

守らなければならないものがあればそれでも守る必要がある。

その時に、

初めて既成概念にとらわれない自由な発想が生まれてきます。

そうやって進化する。

生き延びるために考える。

それが自然ではないかと今では思います。

日常生活でも同じこと。

常識に縛られていては発想が乏しくなりやすいものです。

そうならないために、

完全に自由であることをもう一度自身に噛み締める。

自分の幸福の尺度は人に作られるものではない。

スポーツマンシップという素晴らしい文化。

そこにとらわれない脱スポーツマンシップという武術的発想。

その両方を行き来できると、また面白い発想が色々と出てきそうです。

とはいいつつ、

スポーツ大会などでの尊い姿は、感動以外の何物でもなく、理屈では計り知れないものもあります。

どっちの世界も最高だと思います。

進む領域が違う事を理解した上で、これからも柔らかく生きていきたいと思います。