退化というと、一般的には進歩がとまって以前の状態にもどることをいいます。これを勧めると言うからにはちゃんとした理由がありますので、これから書いてみたいと思います。
言葉としての退化とは?
イメージとしては、進化の反対としてあまりいい意味で使われてはいないように思います。
ならばなぜ今になって退化を勧めようとしているのか。
ここでは、身体の使い方という部分にフォーカスして考察したいと思います。
しかも人類全体のような大きな話ではなく、個人レベルでの動きの部分。それも日常レベルでの話です。
現代に比べれば不便な時代だったひと昔ふた昔前の話。
火を起こすのに薪を割り、水を確保する為に井戸や川から水を運び、隣の村まで行くのに歩いて山や谷を越え、生活をする上で否応なく身体をフルで使っていた時代が確かにありました。
当然それが普通であり、おそらくは誰もが特に意識もせず身体を動かして生活していただろうと考えます。
人がすごいなと思うところは、そういった生活の中での辛さや不便さをなにくそと改善しようとするところが挙げられられます。
進歩の結果、
火は指一本でつけられ、水は蛇口を捻るだけでなく触れなくとも出すことができ、全国各地まで車や飛行機、はたまた家にいるだけでなんでも揃うシステムまで出来ています。
純粋にこれは素晴らしい進歩だと思います。
しかし、
このような便利な世の中になったことで、身体を動かすことが必要最低限になってしまったようになりました。
これが問題だと考えます。
そのために本能的な危機感として運動が必要だと思う人は、レクレーションとしての筋トレやランニング、ヨガや武術やスポーツなどを活用するようになったのではないかと思います。
汗をかく。
血流を促進する。
身体の可動範囲を使い切る。
呼吸を深くする。
要は、
昔は生活をしているだけで賄えてたことが、今は意識的に行わなければすることができない。
それぐらいに超便利社会だからこそキャンプなどの不便さを体験すると、生きてるという感覚が目醒めるのです。
日常でこの便利さを使わないなどということは全く思わない。
もれなくいただける恩恵は大切に享受したいと思っています。
しかし一方で、
身体の潜在能力を使い切らずに死んでいくようなことも望んではいません。
科学の進歩と同時に、人そのものも進歩している。
現にオリンピックなどでの競技では、毎回確実に記録は更新されている。
けれど、
それは一部のアスリートだけの話であり生きている全ての人に人生があるように、こんな便利な世の中で、不健康に不健全に生きていくことは勿体ないと思います。
もちろんそれも医療の進歩で、なんとかなることもあるでしょう。
あとは個人レベルで、自分の身体を使えるチャンスがあるならば存分に使い切る方がいい汗がかけるだろうと思います。
個人的には、
身体を使って畑も耕してみたいし、
米も作ってみたい。
井戸で水を汲むということもしてみたい。
逆にそういう身体を使う生活が贅沢といわれる時が来るかもしれません。
過去から学び、
身体を強靭にし、
汗をかき良き友と語り合う。
そうやって、
ブレない心と身体を同時に手に入れ今を存分に楽しむ。
楽しむためには、健康体と時間が不可欠です。
そこには進歩も必ず必要。
プラスαとして、そこに生活に関して意図的な退化をオススメしたいと思います。
現代社会において必ず必要ではないが、あった方がより豊かな人生を送れるのではないでしょうか。
余裕があるならば、
まずは立つことから始めるといい。
そして歩く。
出来れば裸足で地面を歩けるならば、最高に身体が踊る。