夕方の稽古会。
窓の外では、陽がゆっくり沈み、影が長く伸びていく。
十数人の弟子たちが、静かに立っている。
誰もしゃべらない。誰も焦らない。
ただ、立っている――それだけの稽古。
わたしはその真ん中で手を後ろに組みながら、みんなの姿勢を眺めていた。
(あ〜、いい立ち方してるな。太郎の時とはえらい違いだ。)
思わず口の端が上がる。
あの河川敷の風、太郎の呆れた顔、そしてあいつの「でもでもだって」攻撃。
今思えば、全部が愛しかった。
わたしが“立つ”ことに出会ったのは、もうずいぶん前のことだ。
格闘家時代。
「強くなる」って言葉に酔ってた頃だ。
殴られるのも、殴るのも好きだった。
試合のたびに勝つか負けるか、それだけが人生の評価だと思ってた。
でも、ある日気づいた。
どれだけ筋肉をつけても、勝っても、
心のどこかがずっと“落ち着かない”。
その時に出会ったのが、武術の師匠だった。
初対面で言われた言葉、今でも忘れない。
「立ってみな。」
それだけ。
構えも教えてくれない。技もなし。
ただ“立つ”。
最初の五分で、太ももが爆発。
十分快で、心が折れた。
でもな、不思議と、その後――
世界が静かに見えたんだ。
(あれ……俺、いま、何かに繋がってるな)って。
それから、武術の修行が“戦い”じゃなく“調和”に変わった。
強くなるんじゃなくて、
“揺れない”自分を見つけるために立つようになった。
消防士になってからは、その立ち方が命を救った。
火事の現場で、呼吸が乱れた瞬間――
オレは、ほんの一瞬、立った。
足裏で地面を感じて、息を整えた。
それだけで、不思議と“焦り”が引いていく。
その静けさの中で、仲間を救った夜があった。
あの瞬間、決めたんだ。
「立つことを、伝えて生きよう」って。
いま、“大和の姿勢講座”は三年目に入った。
毎月の稽古で、全国から人が来る。
武術家も、経営者も、主婦も。
みんな、それぞれの「立てない理由」を抱えてくる。
だけど、立ってるうちに、笑い出すんだよな。
身体が整うと、心も勝手に整う。
みんな、立ってるうちに泣いて、笑って、立ち直っていく。
太郎も、あれから“立つ人”になった。
この前なんか、自分の「立つ会」を開いてるって聞いてさ。
思わずニヤけちまったよ。
(あいつ、ちゃんと受け取ってくれたんだな。)
ふと、目の前の弟子たちを見る。
静かに立つ彼らの姿が、まるで一本一本の木のように見える。
どの木も、風に揺れても、倒れない。
根が、地面の奥でちゃんと繋がっている。
わたしの胸の奥で、何かがふっと温かくなった。
(ああ……立つって、ほんとにすげぇな。)
稽古が終わり、弟子たちが帰ったあと。
夜風の中で、一人立ってみた。
昔のように、無理して踏ん張らず、
ただ、静かに。
虫の声、遠くの車の音、
全部が混ざって、ひとつの“呼吸”になっている。
「……初心忘るべからず、だな。」
小さく呟く。
格闘家の頃の自分も、消防士だった自分も、
そして今、姿勢を教える自分も、
全部“立つ”に導かれてここにいる。
どんな時も、立ち続ける限り、また新しい誰かと出会える。
(さて……次は、どんな奴に会えるかな。)
風がわたしの髪を揺らした。
遠くで犬が吠えた。
その声に、少し笑ってしまう。
「よし。明日も、立つか。」
空を見上げると、満月がまるで師匠みたいに、静かに笑っていた。
そして、風の中に立芯は立つ。
今日もまた、誰かが立ち直るのを信じて。
それが、彼の“たゆまぬ一立”。
すべてが宿る、彼の生き方そのものだった。
(完)
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