新連載企画

【第九章】たゆまぬ一立に、すべてが宿る

夏の風が、川の水面をきらきらと揺らしていた。

太郎はいつもの河川敷に立っていた。

だが、今日の彼はもう「弟子」ではない。

立芯が去ってから三ヶ月。

ひとりで立つ時間が、今では日々の儀式になっていた。

(立つことで、こんなにも世界が優しく見えるなんてな……)

最初は意味が分からず、反発ばかりだった。

けれど今は、あの静けさが恋しい。

立つたびに、心の奥に師匠の声が響く。

「立ちなさい。迷ったら、立てばいい。」

太郎は笑った。

この言葉、何度助けられたことか。

その時だった。

少し離れたところで、一人の女性がふらつきながら立っていた。

五十代くらいだろうか。

買い物袋を片手に、足元を気にしながら小さく息をついている。

太郎は思わず声をかけた。

「大丈夫ですか?」

女性は驚いたように顔を上げた。

「ええ、ありがとう。でも最近ね、膝が痛くて……

歩くのが、ちょっと怖いの。」

太郎は、少しだけ微笑んだ。

「もしよかったら、立つだけの方法、試してみませんか?」

「立つだけ?」

「はい。運動でも治療でもなくて、立つことから始めるんです。

僕も、最初はそれしかできませんでした。」

女性は半信半疑の表情で立ち上がった。

太郎は優しく言葉を添える。

「足の裏で地面を感じて、

肩の力を抜いて、

息を、少し長めに吐いてみてください。」

風が二人の間を通り抜けた。

ほんの数十秒。

女性の顔に、少しだけ柔らかな表情が浮かんだ。

「……あら、不思議ね。

なんだか、身体の中が静かになった気がする。」

太郎は笑った。

「それが“立つ”なんです。師匠に教わりました。」

女性は目を細めた。

「あなた、いい顔してるわね。

なんていう方?」

「太郎です。」

「太郎さん、ありがとう。

こんな立ち方、教わったの初めて。」

そう言って去っていく彼女の背中は、

ほんの少しだけ、凛として見えた。

太郎は空を見上げた。

夕焼けの空に、立芯の笑顔が浮かぶ気がした。

(師匠……。

僕、やっと分かりました。

“立つこと”って、もらうことじゃなくて、渡すことなんですね。)

風が吹いた。

その風の向こうに、また新しい出会いの予感があった。

太郎の“自作の道”――それは、

次の誰かに“立つ”を伝える旅の始まりだった。

《終章の気づき》

立つとは、誰かの痛みに気づく姿勢。

立ち続けるとは、その痛みを優しさに変える生き方。

そして、“たゆまぬ一立”とは――

生命が生命を支え合う、最も静かな奇跡である。

(完)

次回【エピローグ】立芯、笑いながら立ち返る