朝の通勤ラッシュ。

太郎はいつもの満員電車の中にいた。

だが、今日はいつもと少し違っていた。

(あれ……押されても、前よりイライラしない。)

数週間前までなら、他人のリュックが肩に当たるだけで眉間がピクついていた。

けれど今は――呼吸が、ゆっくり。

足の裏が、地面を感じている。

(これが“芯”の力ってやつか……いや、まさかね。)

電車を降りて会社へ向かう途中、後輩が駆け寄ってきた。

「先輩、最近なんか雰囲気変わりましたね!」

「え? そうか?」

「前はピリピリしてたのに、今は“落ち着いたボス感”あります。」

「……ボス感!?」

「はい。あと、筋トレやめました?」

「いや、それは……(ほぼ立ってるだけだが)」

立芯に言われた“やる気を出さない修行”を続けてからというもの、

太郎の生活は不思議なくらい穏やかになっていた。

朝は5分立つ。

昼休み、人のいない屋上で2分立つ。

夜、歯を磨きながら1分立つ。

ただそれだけ。

なのに、毎日少しずつ「何か」が変わっていた。

肩こりが消え、眠りが深くなり、イライラが減った。

なにより、「頑張らなきゃ」という声が、静かに遠ざかっていった。

ある日、太郎は思い切って立芯に聞いた。

「師匠、なんか最近、いろんなことが上手くいくんですよ。

仕事も、人間関係も、体調も。

でも、“立つだけ”で、ほんとにそんな効果あるんですか?」

立芯は川の方を見ながら、いつものように笑った。

「あるよ。だって、“立つ”って、“整う”だから。」

「……整う?」

「身体が整えば、呼吸が整う。

呼吸が整えば、心が整う。

心が整えば、世界が整う。

全部、同じ一本の線なんだ。」

「……全部、つながってるんですね。」

「そう。“立つ”って、自分と世界の“通話状態”を保つことなんだ。」

「地球Wi-Fi理論、まだ生きてた!」

「もちろん。電波状況は常に良好だよ。」

太郎は吹き出した。

でも笑いながら、心の奥で確かに“何か”が通じていた。

(立つだけで、世界が変わるなんて――最初は信じられなかった。

でも、もしかして俺が変わったから、世界が変わったのかもしれない。)

その日の帰り道、夕暮れの河川敷で太郎は一人で立った。

もう師匠はいない。

だけど、心は静かで、空気は澄んでいた。

風が頬をなで、足元を流れる草の音が聞こえる。

遠くで少年たちがキャッチボールをしていた。

そのボールが、一度大きく弾んで、太郎の足元に転がってきた。

「おじさん、それ取ってくださーい!」

太郎は笑って、ボールを拾った。

その立ち姿が、まっすぐで、美しかった。

《第七章の気づき》

奇跡とは、何か“特別な出来事”ではない。

“当たり前のことを、心を込めて行う”とき、それがすでに奇跡になっている。

次回【第八章】僕が太郎に託したこと

立芯|身体の土台をつくる姿勢家