気を特別なものにしない
「気」という表現があります。
この言葉を好きな人もいれば、苦手な人もいると思います。
あまり連発しすぎると怪しく聞こえることもありますが、日本語には「気」という言葉がたくさん含まれています。
気を使う、気持ちがいい、気が漏れる、気にする、気にしない、気をそらす。挙げ始めればきりがありません。
「気」とは、そんなに特別なものではありません。
空気のようにそこにある。目には見えないけれども、確実にある。それだけです。
指導者の中には、「気」という表現を多用する方もいます。
分かるようで分からない言葉なので、その秘密を煙に巻ける要素があるからです。
あるいは、部分を一つずつ言葉にするより、全体をまとめて言うときに「気」と表すほうが手っ取り早い、という側面もあると思います。
僕自身、定義の定まらない言葉なので、頻繁には使いません。
ただ、流れを表現したり、それを感じてどう言葉にするかの違いだけであって、「気」を感じる力は、人間、というよりも動物に備わっている元々の性能の一つだと考えています。
たとえば気配。誰もが日常で感じているのではないでしょうか。
ドラゴンボールのような、目に見えるエネルギーではないかもしれません。
しかし、それをうまく扱うことで、身体と精神を統合させたり、分離させたりする。そういう使い方も確かに存在します。
分からないものを、不安に思ったり恐怖に感じたりする必要はありません。
ただそこにある。感じなくとも「あるのかな」という程度の感覚で、ちょうどよいと思います。
その感覚を追い求めすぎるのも、また違う。
元気がないより元気があるほうがいい。そのぐらいの距離感で、「気」と付き合っていきましょう。
あなたの日常が、少しでも深く、芯のあるものになりますように。
立芯|身体の土台をつくる姿勢家



